人生生涯小僧のこころ

新聞の書評か何かで出会った、こちらの本。

お寺の多い京都で生まれ育ちはしましたが、特段、仏教に深い心得があるわけではありません。
ただ、何か引き寄せられるものがあり、Webで書評を見てみると感銘を受けた方のあまりの多さに「一度読まねば!」と買ってみました。

人生生涯小僧のこころ

人生生涯小僧のこころ

 

著者は、千日回峰行と呼ばれる、1日約30㎞もの距離を歩いての修行を7年間かけて975日間も続けるという偉業を成し遂げた方で、他にも「堂入り」という水すらも飲まず食わずで10万回のお経を唱え続ける9日間の修行も成し遂げた阿闍梨(僧の師範格のようなもの)です。

正直なところ、常人には想像すらできない世界で、同列に語ることすら恐れ多いのですが、自分の人生や日々の出来事にも応用できる考えがたくさんあり、非常に感銘を受けました。

「行とは何か」

修行者の行というものは、「人は何是迷うのだろう」「何是、何かに執われてしまうのだろう」というように、色んな悩みを自らに訊ねながら、どこにその原因があるのかを突き止めようとして旅に出るものなのではないかと思います。

その答えを知るために、肉体的にも精神的にもギリギリの状態のところに自分自身を追いやって、たとえて言うなら、その場所にしか咲いていない悟りの花みたいなものを見て、「なるほど、これが答えだったのか」と気づいて帰ってくることなのではないかと。

自分とは一体何なのか、人生とは一体何なのか、なぜ迷い苦しむのか。こうしたことは、普段すべてが整った幸せすぎる生活の中ではなかなか見えてこないものです。それを知るために自分自身を奮い立たせ、厳しい行に挑むのではなかろうかと思います。
崖っぷちに咲いている悟りの花は「そこにはどんな花が咲いているんだろう」といくら考えていても実際に見えるものではありません。どんな望遠鏡を使っても見ることはできないでしょう。その場所にまで行って、はじめて出会うことができる花です。どんな想像をしても、どんなに勉強しても、決してその答えは出ることはありません。

今現在、自分が置かれている「単身赴任」という立場も、自分や家族にとってはある意味で"行"です。当たり前に家族と一緒に住み、助け合っていた中である日突然、最低3年間は離れ離れになってそれぞれが自分たちの仕事なり、学校なり、家の事に一人で立ち向かうことになります。

「何で自分たちだけがこんな苦労をしなきゃいけないのか」と当然のように考えてしまうわけですが、こういった状況に置かれて初めて見える「崖っぷちの花」は確実にあるのだとも思います。失ってみて初めてわかる家族の必要性や時間の重要性、仕事や組織に対する責任感。そうしたものがわずか半年間でも「その場所にまで行って、はじめて出会うことができる花」であった気がします。

「行を終えたら行を捨てよ」

行というものは何回山に行ったとか、どれだけ高い山に登ったとか、そんなことは一切関係ありません。行はチャレンジでもなければ冒険でもありません。行をしたということ自体を自慢したり勲章にしたりしては間違いですよ、ということです。

行をしたからこうなりたいとか、他と比較して損得勘定したりとか、少しでもそのような心があってはいけないのです。心を無にして、目に見えぬ功徳というものを1日1日ひとつひとつ積み重ねていくのだと思います。「何事も根気よく、丁寧に、ぼちぼちと」これが長い長い行を続ける秘訣です。人生の旅も一緒です。

修行の中でも、また人生においても、肉体的精神的苦痛を受けた時は誰でも辛いものです。そこで妥協せずに乗り越えられるかどうかは、天を衝くぐらいの高い高い目標があるかどうかで決まります。その純粋なる清らかな気持ちが限界をも持ち上げ、時として不可能を可能にする力となります。この力は、本来、人には誰でも備わっているものだと思います。

自分に対する過信は脆いものです。地に足をつけ、あせらず手を抜かず、一歩一歩歩み続けていれば、必ず自信がついてきます。勇気が湧いてきます。

先ほどの話にも通ずるものがありますが、自分がこの境遇で苦労したからとか、我慢したからとか、そのこと自体は何の勲章にもなりませんし、見返りを求めるものではありません。

また、初めての職場、初めての職種、初めての立場、初めての単身赴任に"肉体的精神的苦痛"は多かったりもしますが、今を踏ん張ることに精一杯になるのではなく、この先にある「なりたい姿」を目指してチャレンジしていきたいと思います。(健康を害さない程度に・・)

そんなこんなでまだまだ気づきはたくさんありましたが、小倉に戻る新幹線もまもなく新下関。2時間遅れての週初めとはなりますが、今週も張り切って仕事頑張ってきます!