生きること死ぬこと

昔からずっと大事な人が癌と闘っています。

もうすでに癌をとることはできないし、痛みを和らげることくらいしか治療法はない。

そんなとき、ようやく初めて生きること死ぬことについて自分自身が気付かされたりする。

ぼくには身近に医療のプロがいる。

人の死とたえず隣り合わせの経験から死ぬ前に何をしてあげればいいのか、どのように接すればその人にとって幸せなのかそういったことを教えてもらう。

誰々にだけは会っておきたい。

どこそこをもう一度歩きたい

痛いのだけはやめて欲しい。

人工呼吸器をつけてまでは生きたくない。

そういった希望を可能な限り聞いてあげることがやってあげられる最高のことだということ。

もちろん、そうした希望を聞くためには告知が必要になるだろう。死に近づいていることを教えてもらわないと本当の希望なんてものはなかなかでてこないかもしれない。

その一方で、ぼくは癌で苦しんでいる大事な人の家族にも接している。 

心配するから告知はしたくない。深刻な病気だと気付かれたくないからしょっちゅう行くことはできない。

できるだけ家にいさせたい。あと何ヶ月生きられるのかを知りたい。

こうした意見を聞いた。

もちろんこれは本音だろうし、ぼくもその立場なら間違いなくそう思う。現にぼくにとっても大事な存在であるがゆえにもうすでにそう思っている部分もある。 

でも、上で書いたことを踏まえると告知されなければ、本当にしたいことを考えられないし、心配させるからと大事な人をムリして連れてこなければその人と一生会えることはできないし、家にいさせたいといっても、相応の体制がないと逆に苦しませることになりかねないし、

あと何ヶ月生きられるのかを家族が知ってもそれを家族が知ったところで別に何をしてあげられるわけでもない。しかもその○ヶ月というのは結局ただの憶測でしかない。 

頭では分かっている。

「大事さ」ゆえのエゴだということを。

でも家族の気持ちも痛いほど分かる。

「希望を聞いて、それを実現させてやりたい。」

家族ももちろんそうわかっているんだと思う。

その人のためになると分かっていても絶望感を味わわせること、その時の反応を見ることが怖いんだと思う。

「残り何ヶ月か聞いても意味がない。」

家族ももちろん分かっているんだと思う。でも、聞いてどっかで安心したいんだと思う。

明日すぐ死ぬことなんてないよね?と、そう自分に言い聞かせたいんだと思う。

2つに共通することは「死を受け入れられない」ということ。ぼく自身も含めて。

「何をしてあげられるのだろう」

そう考えられるためにはまず自分自身が”死”という底知れぬ恐怖を受け止めることそっから始まるんだろうか。

いろんなことに直面してじっくり生きること死ぬことについてこんなことを考えてみました。

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